敵味方、老若男女から時代を越えて愛される武将

大谷吉継は永禄8年(1565)の生まれ。 母親は豊臣秀吉の妻の侍女。父親は判明していません。 幼少期から、秀吉のもとで、後に盟友となる石田三成(いしだみつなり)らと競い合いながら成長したといわれます。秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。 天正17年(1589)、敦賀の領主となった吉継は敦賀城を拡張し、町立てを整備するなど、敦賀を“城のある港湾都市”につくりかえました。敦賀は京都・大坂に物資を供給し、戦争の際には兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能しました。近世以降の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代につくられたといえます。 しかし、秀吉が没すると、徳川家康が政治の中心となっていきます。三成方と徳川家康方が戦ったのが関ヶ原合戦 慶長5年(1600)です。三成方が敗れ、三成に味方した吉継は自刃しました。その後、敦賀城も廃城となりました。

吉継は、知略に長けた人物として知られ、ドラマや小説等で描かれることもあり、病に侵されながらも盟友とともに戦場に立った義に厚い武将として広く慕われています。