構成文化財紹介 その①『つるがの山車』

湊町敦賀の繁栄振りを象徴する“山車”

 つるがの山車は、あまりの豪華さに小浜藩から数や大きさ、装飾などの縮小を命じられた事もあるほどで、いかに華やかなものであったかが想像できます。

 この山車が巡行する敦賀のまつりの伝統を支えたのは、古くから湊町として栄え、「北前船」に代表される海上交易で生まれた敦賀の経済力と町衆達の情熱でした。

 湊町敦賀の繁栄振りを象徴してきたこの山車は、「氣比神宮祭礼の山車」として2020年(令和元)、日本遺産【北前船寄港地・船主集落】の構成文化財に追加認定されています。

構成文化財紹介 その② 『旧大和田銀行本店社屋』

(山車会館 別館建物)★国登録有形文化財

北前船交易で活躍した商人の足跡を残す「旧大和田銀行本店社屋」

 敦賀の北前船主の一人である、初代・大和田荘七は江戸末期に船荷問屋を起こして財を成しました。その養子の二代目荘七は、初代が築いた財力を基に敦賀港の近代化を進めた人物です。二代目荘七が1892年(明治25)に創設したのが「大和田銀行」であり、1901年(明治34)、その創業地に建てられた本店社屋が、現在の山車会館別館の建物です。

 この建物には、銀行の業務形態に沿うように増改築をした痕跡があります。建物自体が近代敦賀港とともに成長した大和田銀行の歴史を物語り、大和田荘七の足跡を残す貴重な文化財です。

建物の特徴

 通りに面した北側は、正面外観と内部の半分に洋風の造りを取り入ており、南側半分は和風仕様の、いわゆる町家建築となっています。

 大金庫の設置や北側の洋風意匠への改変、防火構造を持つ外壁の設置など、改修を繰り返して銀行の建物としての機能を積極的に取り入れていった痕跡が見られる特徴的な建物です。

旧大和田銀行本店社屋 年表
西暦和歴月日記事
1892明治2510月11日この場所 (敦賀町蓬莱26番地)で大和田荘七が大和田銀行を設立
11月1日より開業。当初は「自分の借家を明けさせ」て本店社屋とした。
(『北陸の偉人大和田翁』より)
1901明治342月頃社屋を新築。(別建物の部材流用か)
(「昨夏より起工仕候新築工事既ニ落成致シ候」
(「移転披露祝宴招待状」より))
1901明治343月4日万象閣において移転披露祝宴開催。(移転披露祝宴招待状より)
1904明治374月西側増築他改築、上棟 (棟札より)。 この時金庫設置か。
この間にファサードを洋風に改修
1927昭和2後背地に新社屋(重要文化財 大和田銀行本店本館)竣工。銀行機能移転。
1947昭和224月9日大和田荘七が没し、大和田正吉(蓬莱町38番地)が相続
1952昭和273月26日株式会社小森製肥(現小森商事株式会社)に売却。
平成7年まで小森商事本社として使用。
1996平成83月7日敦賀市が土地建物を購入して改修。みなとつるが山車会館建設。
1997平成94月~みなとつるが山車会館別館として活用

もう一つの旧大和田銀行本店建物

 大和田銀行は、1927年(昭和2)に創業地と背中合わせの位置に、洋風の新社屋を竣工しました。完成当初「摩天閣」と言われたこの建物は、1945年(昭和20)の敦賀空襲にも耐え、現在は、敦賀市立博物館として利用されています。(国指定重要文化財「旧大和田銀行本店本館」)

構成文化財紹介 その③ 『敦賀市内の構成文化財一覧』

 
敦賀市内に残る日本遺産ストーリーの構成文化財一覧

番号文化財の名称文化財の概要
鰊蔵江戸時代、蝦夷地から北前船で搬送された鯡を収納した大型土蔵。
洲崎の高燈籠敦賀湊に出入りする北前船の目印として1802年(享和2)に建てられた日本海側最古の石積み灯台。
旧大和田銀行本店社屋
★構成文化財紹介 その②
北前船で財をなした廻船問屋・大和田荘七が1892年(明治25)に創業した大和田銀行の創業地に残る社屋。
疋田舟川北前船で搬送された荷物を、琵琶湖水運を活用して輸送するために、
1815年(文化12)に整備された運河の遺構。
昆布の手すき加工技術北前船で運ばれた昆布の加工技術。
船絵馬群
(八幡神社 北前船図絵馬ほか)
北前船主や船頭が航海の安全を祈って市内各所の神社に奉納した絵馬。
常宮神社奉納物越前河野浦の右近権左衛門をはじめとする多くの北前船主が
航海の安全を祈って奉納した石灯籠や手水鉢。
氣比神宮大鳥居扁額北前船主として財をなした加賀瀬越の大家七平が奉納した
北陸総鎮守氣比神宮大鳥居の扁額。
船中掟心得書敦賀の北前船主、立石吉兵衛が書き記した。船頭や水主の順守すべき掟、
船の守り神である船玉明神を崇敬することなどが記されている。
氣比神宮祭礼の山車
★構成文化財紹介 その①
北前船主をはじめとする敦賀の有力町衆達が、
氣比神宮の祭礼の際に曳き出した山車。
江戸時代には数十基もの山車が曳き出されたという記録もあり、
敦賀湊の繁栄ぶりを伝えている。