敦賀城主 大谷吉継

大谷吉継とは

大谷吉継は1565年(永禄8)年の生まれ。
 母親は豊臣秀吉の妻(お祢、高台院)の侍女で、東殿ひがしどのと呼ばれた女性。父親は判明していません。
 幼少期から、秀吉のもとで石田三成、加藤清正らと競い合いながら成長したといわれます。
 本能寺の変ののち、秀吉が天下人となると、吉継は優秀な実務官僚として豊臣政権を支えました。1585年(天正13)、秀吉は関白になり、吉継も刑部少輔ぎょうぶのしょうゆうに任じられます。『大谷刑部おおたにぎょうぶ』という呼び名はこれに由来します。

敦賀城主として

 1589年(天正17)、吉継は敦賀の領主となり、敦賀を“城のある港湾都市”につくりかえました。敦賀は京都・大坂に物資を供給し、朝鮮出兵など戦争のおりには兵粮、船、操船者を整える拠点としても機能することになります。江戸時代の敦賀湊の繁栄の基礎は吉継の時代につくられたといえます。

関ヶ原合戦にて

秀吉が没すると、しだいに徳川家康が政治の中心となり、これに抵抗した三成に味方して戦った関ヶ原合戦(1600年/慶長5)で敗れ、吉継は自刃します。敦賀城も、1615年(元和元)の一国一城令いっこくいちじょうれいで廃城となりました。

山車会館は吉継巡礼の聖地?

吉継は、石田三成の盟友として知られ、ドラマや小説、ゲーム等で描かれることもあり、義に厚い武将として広く慕われています。吉継が治めた敦賀には、熱い歴史ファンが“吉継巡礼”に訪れています。吉継展示のある山車会館は、はずすことのできない聖地です。

“つるがの山車”にも大谷吉継!

【関ヶ原合戦】を題材にした山車には、吉継の武者人形が、盟友 石田三成と因縁の相手である小早川秀秋とともに勇ましく飾られます。
(注)山車は隔年展示のため、ご覧いただけない場合もあります。

大谷吉継と幻の敦賀城

吉継が拡張、整備した敦賀城に関するミニ展示コーナーでは、推定城域内で発掘された出土資料(礎石や陶磁器)などを展示しています。

吉継が敦賀市公認キャラクターに!?

 領地を思う吉継の心が化身した“よっしー”。いつも市民を見守っています。
好物:領民からの贈り物(さば・こんぶ・なまこ etc)、ソースカツ丼
特技:文武両道・茶道
願い:“平和な世の中”と“敦賀城の再建”(最近エコ活動に努めている。)