地元出身の著名人に救われ、敦賀市の文化財となった山車

★敦賀市指定文化財(指定:1971年/昭和46年)

 敦賀の山車の多くは、1945年(昭和20)の戦災で失われましたが、金ヶ辻子山車は焼失を免れ、1950年(昭和25)には復興の中、戦後初めて巡行が叶った山車でした。しかしその後、管理や巡行に多大な費用もかかるため、区での保有が困難になり売却されることになりました。その際、同区出身の和装デザイナー大塚末子おおつかすえこ氏が山車一式を購入し、地元の文化財を散逸から守りました。

 1970年(昭和45)、金ヶ辻子山車は大塚氏から敦賀市へ寄附され、唯一、市が所有する山車となり、翌年には敦賀市の文化財に指定されました。

現在は、桜町と蓬莱町のみなさんが祭りの巡行を担っています。

~金ヶ辻子山車の飾り物(現在)~

合戦:刀根坂の合戦  
武者人形:織田信長・朝倉義景・山崎長門守

~金ヶ辻子山車の水引幕~

金ヶ辻子山車を飾っていた水引幕は、儒教で重要とされる「こう」に優れた人物を取上げた中国故事『二十四孝にじゅうしこうを主な題材にしており、それぞれ、『菫永とうえい』『漢文帝かんぶんてい』『揚香ようこう』の物語の一場面が刺繍で描かれています。

『二十四孝』は日本にも伝わり、道徳規範の手本として寺子屋などで教育的に用いられたり、浄瑠璃といった芸能にも取りあげられたりしています。江戸時代には版本や和訳本も刊行されました。

古い幕の一枚には、能の演目「蟻通ありどおし」の場面とも、住吉大社の参詣図とも考えられる図柄が描かれています。航海の守り神として信仰を集めていた住吉大社の参詣図とみるならば、湊町として栄えた敦賀で、航海安全を祈って水引幕の図柄に選ばれたのでしょうか。

金ヶ辻子山車の水引幕は、平成23・24年度に、江戸時代から使われてきた幕の図柄を基に復元新調されました。この時、他の3枚にあわせて、住吉大社参詣図に代わり中国故事に図柄が変更されています。

江戸時代の町名紹介 ◆金ヶ辻子町(かねがずしまち)◆

鉄問屋や刀鍛冶があったことから、金ヶ辻子と言われました。