塩川文鱗しおかわぶんりんが下絵を描いた “琴高仙人図きんこうせんにんず”の水引幕

 敦賀の山車の多くは、第二次世界大戦の戦災(敦賀空襲 1945年/昭和20)で失われました。戦後、残された山車の巡行が復活し、更に山車の復元を望む声が高まりました。東町山車は、1994年(平成6)に復元された山車の1基です。
 眠っていた山車の部材が個人や町から提供され、旧東町にも装飾品が多数残されているのが発見されたことから、これらを基に山車の復元が実現しました。東町に伝えられた見事な高欄に別の山車の台車を組み合わせたり、釘を使わずに再現したり、不足部分を新たに作るなど、復元は地元の大工や地域の人々の手で試行錯誤しながら行われました。

~東町山車の飾り物(現在)~

合戦:賤ケ岳の合戦  
武者人形:柴田勝家・佐久間玄蕃盛政・加藤清正

~東町山車の水引幕・装飾品~

 東町山車には、明治初期の京都画壇を代表する画家のひとり塩川文鱗が下絵を描いた全面刺繍の水引幕が飾られます。図柄は躍動感あふれる“琴高仙人図”で、幕の右下には「文鱗」の銘が見られます。現在残されている文鱗下絵の幕は1面のみですが、山車の装飾がいかに豪華なものであったかを知る貴重な幕であることは確かです。残りの3面には花鳥柄の緞子の幕が掛けられます。

江戸時代の町名紹介 ◆東町(ひがしまち)◆ 

 東西を流れる川に架けられた橋の周辺を“中の橋”その東側を東町と言ったのが由来と言われます。この町の名は、古くから史料に見えており、富豪も多かったようです。